Inconvinient world
 - 評論家・形式変更家(フォーマットリメーカー)糟河霽の公式サイト(Web-log)です

Profil

糟河霽(Kasugawa Miharu)

Author:糟河霽(Kasugawa Miharu)
Writer of this place was born nineteen eighty-nine(Japanese :H1), i.e. year when Berlin Wall collapsed, or year when cold war ended. Writer thinks about "education(educating)", sociality(social relationship), "action", "place", "possibility of Leben", "food, clothing and shelter(creature conforts)", etc.
統計調査や社会的観測を主要な分析対象とし、文学的観測を怠っていたがために、現代の〈評論〉は群集心理としての科学万能主義やスノビズムを下支えする結果になったと思う。であるので筆者は同時代の「文学的観測」を通じて、「生の限界と日常的渇望」の時代における希望と可能性を論じたい。ここにある文章群は、困難な「世界」「技術」の中において、可能を不可能に換えるためにある。「人生」「世界」「すべて」についての、読者の方の忌憚なき応答を心より俟ちたい。
まだ文章の位置・配置が雑然としているきらいがありますが、表示された段階でのわたしの技術的・精神的な限界です。日々更新されますので、WWWブラウザーの(パーソナルな)ブックマーク機能を活用しながら、目守ってやってください。筆者の芯の性格によって、文章は硬くなっているのですが、心情としては(表示していただいた方には)気軽にゆったり寛いでいってほしいです。
なおこの場所の名前、Inconvinient worldとは、便利―不便に対応している。二一世紀の文化は、「便利」を目指したいとして培われてきた。現代に生きる自我ならば、さまざまな生活空間、視覚的直接的空間の中の表象として明らか過ぎるほどに実感されるだろう。どんな状況下においても何か絶対的な「便利な他者」(便利、という言葉に含まれる日本語としての、文脈的・感覚的・辞書的な意味をそれぞれ総合して世界あるいは思考の筋道に当て嵌めてみて欲しい)が存在しているように思われてくる。その「絶対的な他者」に抗するためのコミュニケーション・メディアとして、この場所は二一世紀の世の中に設立・想像された。

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This living hand, now warm and capable
Of earnest grasping, would, if it were cold
And in the icy silence of the tomb,
So haunt thy days and chill thy dreaming nights
That thou wouldst wish thine own heart dry of blood
So in my veins red life might stream again,
And thou be conscience-calm’d—see here it is—
I hold it towards you.

(This poetry by 19th-century England Romanticism poet John Keats.)


 わたしたちは凄く狭い世界で生きていると思う。だから、簡単に絶望してしまう。そして、これには、三つの「マス mass」が関係していると、筆者は分析する。「マス生産 mass production」「マス疏通 mass communication」「マス触媒 mass media」がそれである。これらは、〈社会関係〉という動的機関をを構成している車輪である。

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2009/08/24


西欧思想とわれわれの場所――哲学随想

 日本あるいは歳という空間に生きている、あるいは孤独に生を存している地平で、われわれが思考する場合、独自に言葉をつくり、世界の意味を解読していくという作業がまず挙げられる。しかしそうすると、より孤独と散逸は深まる。われわれは、西欧の「最新の思想」――それは当然古典の思想を数多く含む――に着目し、渉猟し、接近するべきだろう。テクストや古典文献(キャノン)は、現在のわれわれの「社会」の状況、あるいは空間のなかでは、己の身体敵地の領域を無化する場合には、技術によって提示されてくる。技術が、われわれの知を代補してくれると考えがち――というよりむしろ、そのような信じ方でしか思考し得ないような文化的に〈貧困〉な状態に置かれている、といった方が適切だろうか――である。「今ある(表象・表出されているすべての[思想〈書〉、つまり志向・思考空間のの中心的な〈役割〉を担っている])テクストは、生=世界ーグローバルの関係を探求するすべての主体の血肉である」、とする主張が現在の西欧思想にはある。抽象的な語りの地位――つまり空間で重んじられること――が低下している状況下にある。しかしわれわれは、抽象的な思考なしに世界を把握し探求することができない。それはほかならぬ〈生〉を営む段階において、われわれが感得した何よりの成果である。思想を語るときと、日常を語る(生をする、生きる、あるいは生き抜く)とき、われわれは人格を矛盾させ、分裂させ、拡散しているようにも思える。それこそが時代の困難であるが、しかしその困難のできるだけ正確な把握なくしては、思考は前進も顧慮もできない。それは身体的な空間によってなされるべきだが、われわれは身体的な空間――「社会」と名指したほうが早晩諒解されやすいだろうか――が、われわれの住むべきような完璧で柔軟で何より“理性的”な空間でないことをいやというほど識っている。しかし、だが、、そのような認識だけで本当に良いだろうか。困難を克服する鍵は、その困難の空間のうちにある。技術、装置、機械、構造――名指す言葉はたくさんあり、まただからこそ多くの人びとの胸のうちに届いていないが、そのなかから「社会」という巨大な他我――他者というよりもこの言葉を遣うべきだろう――に対して抵抗し、また、よりわれわれの理性的段階に大して〈近づける〉ということが必要ではないかと思われる。

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2009/07/09


テクスト批判→生の綜合的研究へ

序 今やわれわれの理性は、危機に瀕している。言葉は思念でなく、文字と化している。「抽象的な秩序」と「現実の渾沌」、これらが衝突したとき、多くのストレス(原義)が生まれる。その衝突にいたるには、多くの「社会」装置の作用が関係している。それを解き明かす試みを企てたいと思う。本論を読むにあたって、いくつかのことを諒解していただきたい。一つは、「人」を人として捉えなおすこと。具体的には、人代名詞に(意識的・感覚的、「社会」的に)付加されている既存の「イメージ」を取り払っていただきたいということ。現実はたしかに渾沌としているが、ここでは、純然たる人的世界・人的コミュニケーション空間を想像していただきたい。もう一つは、一つ目と似ているが、これからの語りのなかで出てくる「現代」「都市」「イデオロギー国家装置」「批判」「生」「日常」「装置」「技術」「会話」「技術」「死」「生」「熱源」「感覚」「状況」「乗り越える」「根源」「商品」「他者」「最終」「生活」「位置」「概念」「想像」「空想」「神話」「文学」「エコノミー」「テクノロジー」「ヒューマニティ」「現代」「貨幣」「数」「秩序」「利用」などの単語を、想起された意味があやふやな場合は、必ず辞書で調べていただきたいということである。今、ここに括弧書きで抽出したものには、意味がほとんど同じであったり、原語と翻訳語であったり、重複しているものがある。しかしそれは意識的に書記した。まぎれもなく「生」の中には、このように、同じ概念・明辞に繰り返し遭遇し、意識の上でも湧出してくるためである。それではそろそろ、本文に入っていきたい。(続)

1 現代都市の教育(イデオロギー国家装置)批判
 ・少なくとも、30人以上の人を相手にする。年齢が上であれば上であるほど、人格、行動がしっかりとしたものであり、かつ渾沌としたものであることはたしかである。情報時代を巧く生き抜いている人こそが、教室、あるいは校舎という場において、「権威」ある立場に君臨できるのだから、巧緻こそ正義、分析の第一段階であるここではまず、それでよしとしよう。それだからこそ、相手にする「人」が見えにくく映る。相手は悪者であるかのように、「社会」において描出されている。まして、相手らは同じ指定服を着ている。相手の文化的性にかかわりなく、「社会」において適するとされる指定服が支給されている。そこには、心情、感覚がまったくあらわれない。ほとんど無に近く、消失させられている。名前と、〈成績〉だけを持つ、「ただそこを通り過ぎるだけの代替可能な存在」、として、「社会」に「存在」させられ、「職業人=活動者」に記憶されている。

2 生の日常、装置と技術
 ・会話における死、技術における死

3 生の熱源である感覚
 ・「最終状況」を乗り越えるものとしての根源

4 商品としての他者
 ・「最終生活」における位置の概念について

5 想像と空想
 ・神話と文学
現代の文学は、渾沌としている。批評空間、売り出し空間も渾沌としている。高い文化(ハイ・カルチャー)として安穏としていられた時代は終わりを告げ、迷走しているようにも感じられる。それはとくに(印刷されて読書人=業界内の流行の先端に来る)「評論」の分野において顕著で、商業主義の影響なのかテーマ・分析方法じたいがあまりにも節操がなく、かつ世代間の意識格差が、激しすぎると形容できるくらい違う。やや抽象的な例になるが、最近売り出されている(2007年から2009年ごろ)評論の載る雑誌、有り体に言えば「新潮」「小説トリッパー」などの、「純文学系」の雑誌、「ハイ・カルチャー」を名実ともに先導してきた「媒体」の目次を見ていただくと、解るかと思う。これらの読者には、長谷川如是閑や横光利一の名前や、その時代の評論の流れ(興隆)を知らない人も多いかもしれない。それが、情報(化)社会の必然であり、「致し方のないこと」であるとも、思うことは一往できる。しかしそれは、非常に複雑な問題が絡んでいると筆者は考える。このことはいずれ詳述したい。「書く人=発する人」に注目すると、若い(というべきと思う)作家では、高橋源一郎もいれば、阿部和重もいる。平野啓一郎もいれば、舞城王太郎もいる(このなかでも舞城の小説は、着想から物語化、作中人物の会話あるいは内面の描出、自明とされている観念、読者に提出し想像させる世界観まで、とりわけ渾沌とした様相をもっている)。作家は豊穣としているかもしれないが、それを見る目、評論・批評は、渾沌としていて、かつ目に見える力を喪っているように感じられる。

6 エコノミー・テクノロジー・ヒューマニティ 
 ・現代の貨幣は、数の秩序を巧く利用している

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2009/07/09


ジャケット絵:フェルメール作「天文学者」

 「教育学は、学校の技術である。学校教育は、機械時代と機械的世界の中で生きていくことができる人間を作る。教育ヒューマニズムは、「良き」人間を作ることをめざすが、その「良き」人間とは有用な人間のことであり、有用な人間とは機械に適応できる人間にほかならない。コンフォーミズム(順応主義)と有用性、これが管理機械としての教育学の目標である。独立不羈の個性は集団になじまないし、機械にもならない。これは教育の障害物である。集団に適応することは機械の部品になることだ。集団はすでに機械化しているからだ。効率合理性は、近代人のモラルですらあるとき、効率と有用性を目標とする教育学が人間の機械化のための管理機械にならないわけがない。」(今西仁司『近代の思想構造 世界像・時間意識・労働』、人文書院、一九九八年、p.64 「第一章 機械としての世界=機械状組織、社会管理機械」) 


 『新しい教育学をめざして――技術的不可能の時代と託された希望』

 ――集団的に選択されて表出(表彰)された言語の中から、時代的病理の渦巻く渾沌として不健康な社会を浄化するものを掴み取ろう。

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2009/06/26


「エクリチュールの摂氏三十六度」宣言

◆記憶または記録、あるいは括弧書きの(コミュニケーション)としてのテクスト

 文字あるいはコンピュータ的表示の中では、どうやっても筆者=私=実存在は冷たい存在とならざるを得ない。筆者はそれを最も警戒していて、口頭の会話ならもっと旨く伝えられるだろう手段や身振り、言葉や表現があるのではないかと思う。しかしながら二一世紀のテクノロジイの限界、あるいは社会状況・インディヴィジュアルな個人と大文字の「社会」の関係を考えてみると、こうやった仕方でこうやった場所にこうやった方法で理想像や意志をえがくというのは、何かしら意味があるはずだとも思う時間帯がやって来る。
 筆者―編集者との関係において即座に世に問う連関が現出するという状況はもはや空想の中にしかない状況の中で、いかにして本当に書きたいことを(社会的にもう分けようのない)個体が書いていくのか。あるいは、「文学的空間」を操っていくのか。時代自身の意志・理性とは何であり、どのようなものであるのか。
 「われわれ」は膨大な数の趣味判断によって生活世界を構築していく。生活において関係したい他者を選別する行為もまたそうである。他者は、そこでは言葉通りに選られ別けられているようにも見えるし、「運命」ないし「宿命」によって“最終的に自身へと提出された課題”であるようにも見える。見方によっては、どちらでもあるのである。しかしそれも、「われわれ」という認識段階においての話なのだ。現代に近づくにつれて発掘されてきた「実存主義」の観点からでは、常に個体(主体、認識する自身)は限界の段階におり、個別的な理想を胸中に抱いており、また他者に対して誠心誠意を以て献身しようとするのである。ところが、経済的事由、あるいは社会関係的な事由(これらは「生残り的理性」と称すべき様相を有つ)によって、個体はそれを諦めたり、弱めざるを得なかったり、または実行すべくなくなる状況が現出する。そしてそれらは「社会」と密接な関係にある。
 ここまでの段落で辿ってきたのは、個体の文学的な研究(歴史的な個体探求行為の追認)であった。ここで現代の知的なテクノロジイである「統計・社会調査」が登場する。ソシオロジイとして理論家・方法化されている。これまでの(文学的)人間が、(社会的)個体へと覚醒する段階がここで示される(先に展開されたセンテンスの中で元来「人間」とされてきた部分が「個体」となっているのは、現代の「個体」の陳述可能性を汲んでのことである)。

◆個対個の諒解不可能性と社会的コンテクスト

 「またここで留意すべきは、つぎのことである。文学的権威の分配のされ方は、他の規範的権威の場合と同じく、他の規範的権威の場合と同じく、社会的・文化的にみて偏っている(なぜなら制度内で発言力をもつ人間は、べつの面でも社会的・文化的な権力を握っていることが多いからだ)。またわたしたち自身の共同体では、一般の社会的・文化的趨勢は、いろいろな分割線の中でもとくにジェンダーの分割線に沿って形成されることがふつうなので、制度化された文学規範(アカデミックな教育における正典、高尚文化重視の批評基準など)は、いろいろな変更の中でもとりわけ偏ったジェンダーの観点、つまり男性の観点によって左右されやすいのである」(『現代批評理論 22の基本概念』p.390 第13章「価値/評価 Value/Evalution」 担当:バーバラ・ハーンスタイン・スミス、なお22章それぞれに一人ずつのWriterがいる)
 本文だけで700ページ近くあるこの本のこの部分を取り出して着目すると、ある概念(キイワード)に対しての言説であると思われる、ということが社会的コンテクストであるといえる。文学的文脈とは違った諒解領域に属する。「社会」の大きさ、個体の数多くの行為あるいは随伴する情動における、(「他者」からの)無理解の肥大ということに通ずる。この書物は1994年に日本語で刊行された。1994年当時の原テクスト+翻訳の精神が結集されている、精神的に高く、文学的に誠実である稀有な「入門書」といっていいだろう。このように動きの激しい「社会」において、それでも文学的な理性・文学的な世界・文学的な空間・文学的な言語を信じようとするなら、(自身の)”社会関係”、”社会的個体としての可能性”と接触せざるを得ない。

◆大文字の「社会」への送信可能性、あるいは「社会的諦観」

 どれだけ書いても伝わらなければ意味がないと多くの個体は考える。ただ文学的な存在者というだけでは「社会」に対して諒解が得られぬと「生残り理性」は判断する。
 社会的諦観とは、「社会は複雑的・渾沌的(カオス)である」などと判断して“諦める”ことを意味する。ここに記述された「カオス」に関して、エレボス―暗闇、ニュクス―夜、などの対応(直喩)関係のあるギリシア神話の想像力を参照して欲しい。作家を挙げると、ホメロス(『イリアス』『オデュッセイア』)、ヘシオドス(『神統記』『仕事と日々』)、ピンダロス、エウリピデス、カリマコス、エウヘメロス、ロードスのアポロニオス、プルタルコス、パウサニアスなどがいる。
 参照すべきと思える神話を提示したところで、歴史的状況あるいは政治的状況の中で取り残されてきた個人や個的存在について考えの矛先を向けてみたい。そこで、有名なアノミー概念を、デュルケームに溯り、ディルタイを通過し、ジンメルに入り込みながら概観してみたい。といってもまだ資料が十全には揃っていないので語ることが出来ない。作家の名前もここでは単に思考・思潮・精神の代表される記号に過ぎない。今の段階で出来るのは、本質的な紹介に基づいて現代的文脈から着想された諸構想・アプローチを提示することである。

◆「個人的見解」と「図書館+百科事典学習集成」
 古代ギリシア社会を「人―世界」のミニアチュール(ミニチュア)として見て、古代ローマ社会を戦乱・渾沌の時代だとすると、それ以降積み重なってきた歴史・哲学(文学+思想)は、「現代的人間」に知的法衣を受肉するための試みであったと思う。われわれにはそれを表象でなく文学的行為として、現象でなく社会的行為として、遂行する義務があるのではないか。あるいは、大文字の「社会」に対し、小文字の「闘争」を以て対抗してゆくことが求められるのではないか。より過激に言えば、閉塞を抹消し、変化を胚胎させること。
 私は、この考えを維持しつつ、「古典的(正典的)作家」としてユルゲン・ハーバーマス+カール・ヤスパースの著作・業績・言葉遣い・文脈・文学的営為に対する姿勢、用語(仕事 works……つまり正典的「テクスト」の読み解き、全存在を投入しての自身―他者との研究だ)に依拠しつつ、現代の哲学者(社会哲学者)、作家らの営為に耳を傾けながら、自身の行動可能性、あるいは絶望への反射としての発言可能性に着目・着手しつつ、「それでも生を生きていたい」という内奥の「声」にしたがって生きてゆきたい。逆にいえば(不自由に)死ぬのにはまだ可能性がありすぎるということであり、つまり(自由に)生きるのには不可能性が多すぎるということである。希望も絶望も積極的/熱烈には感じられていず、ただ「社会的諦観」が行動、発言、「生き方そのもの」「コミュニケーションそのもの」を抑制、抑圧しているというだけだ……。主には、「学生・受験生としてのテクスト的貧困」(これは名指さなくても解っていただけると思うが、「教科」+「試験」という恐るべき国家テクスト『国語』、あるいは外の「他者の営為」[教壌的空間において『外国語』『数量の学』などと未だ名指されているもの、対象、表象、現象]に準じて、同世代的、つまり生活的、『宿命的』空間において無関心さとシニカルさ、戦略崇拝と権威追従が雰囲気・空気 atmosphere として醸成されるという[“絶望的”な]状況)の問題がある。これこそが私の生を束縛しているものといっていい。だからこそ私は、単純に行為として小説・思想書・思想解説書・用語解説書を読んだり、文学空間・想像的虚構的空間に逃走したり、様々な「社会的攫み取り」に対して反抗の情を抱いてしまったりする。それは弱いといってくれて構わない。だけれど、真剣に思考したり読書したりしている自身もいる。それは、反説的に「(今までの)教壌空間」が私に示唆してくれていたことであったはずでもあるのだ。『道徳』『美術』『音楽』『社会』『数学』『英語』……、いろんな教化名(この字はあえて間違いでないとしたい)があったが、それは私に、教師という直接他者でなく、学問あるいは知的体系、総合的他者として、それこそ『顔』に等しいものとして私の内奥に迫ってきていた。単純な暴力行為や無理解、無関心は私の中の私でない他者の諒解不可能性を刺激するだけで、どのように模索・試行をしても、希望も可能性も与えてはくれないのだった。しかし、ここまでこのように「社会」から分断された言説(英語ではディスコース、仏語ではディスクール……だがここでは日本語の通常の意味で解釈していただいたほうがいいだろう)を熱心に読んでくれた方がいるのならば、それは私にとっての唯一の光ともいえる希望である。そういう方たちとの(こう名指してよければ文学的・行為的な)コミュニケーションを誠実に開始したいと私は思っている。

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2009/06/20


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