This living hand, now warm and capable
Of earnest grasping, would, if it were cold
And in the icy silence of the tomb,
So haunt thy days and chill thy dreaming nights
That thou wouldst wish thine own heart dry of blood
So in my veins red life might stream again,
And thou be conscience-calm’d—see here it is—
I hold it towards you.
(This poetry by 19th-century England Romanticism poet John Keats.)
人生、現象、世界のすべてを賭けて書いている人が、社会的な絶対量として少ない。そもそもその《書かれたもの》に接近することが日常生活においてあまりに少ない。新聞記事や新聞の投稿は、新聞とテレビのみを情報源として文章を作成しているのだろうが、それだけに瞋りがこみ上げてくる。その二つの強大凶悪なマス‐メディアから離れてみて、手に入る《書かれたもの》を察知してみると、地下鉄の構内や車体に旺溢している広告だとか、新聞の下欄に掲載された広告だとかに載っている、野蛮な言語活動を伴った、人間の負の側面が如実に凝縮された低俗な大衆雑誌くらいしかない。もちろん、外にも「探せばある」のだが、「多くの人」は、マス‐メディアに名実ともに頼りきり、その重要な《書かれたもの》を、探すことすらしないのではないか? 私たち現代人は、情報が貧困というよりも、生活が貧困といえる。
もちろん何も、この事態に声を上げてまで《反対》すればいいというものでもない。人生は何者かに包囲されているわけではない。かならず、意見には始原の地点があり、そこからすべては初発しているのだと考えるべきである。つまり、《人生》を重視するのか、《マス‐メディア》を重視するのかという問いである。
小説のような自由な文体で、各成員が、おのれの人生を語ることを欲されているのである。小説のような、知性的で強烈な表現として。積年の情動が、かならずその人の人生のなかで形成されている。発達の過程で、社会への鬱積や不満、世界思想への共感や批判的感情が、培われていることは想像に難くない。それを見過ごすことそのものが、《人権(ライツ)》の軽視といえるだろう。私たちはそれらの声に耳を傾け、可能な限り社会に反映させてゆくべきではないか? ……だからこそその前に、私たちは、《素直な声》を持って、一人ひとり、自分たちが見えている《社会の様相》を陳述してゆくべきではないだろうか。人間が不完全なものである以上、その構成物たる社会はつねに不完全なものなのであり、《完結》はしていないはずである。誰にも、「今のままでいい」と意見する権利はない――つまり、どのような年月にも発されうる「《今》の、このような社会ではまずいのではないか?」という問い・批判に対し、無視の態度を決め込むことは誰にも許されていない(その都度、ひらかれた《討議》に懸ける必要がある、と各成員が意識を持っている必要がある)――のである。このような思索をすべての構成員が経た場所における《意見の討議》、そしてその結果の作物において、《完全》という短絡的な理想郷ではなくとも《より生き易い》社会にしてゆくことは可能なのではないか?
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2009/05/19
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