This living hand, now warm and capable
Of earnest grasping, would, if it were cold
And in the icy silence of the tomb,
So haunt thy days and chill thy dreaming nights
That thou wouldst wish thine own heart dry of blood
So in my veins red life might stream again,
And thou be conscience-calm’d—see here it is—
I hold it towards you.
(This poetry by 19th-century England Romanticism poet John Keats.)
いま、問題となるのは、「私たち」がどこに住んでいて、「誰」が「どこ」にいるのかということである。渡したいが生きている世界はごく小さい。新幹線(一人の人間が地球的座標を移動するのに比較的苦行を伴う陸区間のための運輸装置)などの、文明の利器の中にのなかに私たちが「座して」いるとき、私たちは「車窓」空間に住んでいるのである。確かにいろいろな風景が観られる。私たちが平常住んでいる空間とは違った自由さや開放感をそこには見ることができるだろう。しかし、それは「実存的な真実ではない」のである。私たちが何かを「語る」とき、何かに「依拠(仮託)」しなければ語ることができない。現代では、依拠・仮託するものとは主に何らかの技術であり、何らかの心理(感情)である。このうち、技術は何らかの形式を伴う。心理・感情は、私たちが(現代に君臨した〈戦場の王〉たる)「一日」や「生活」を攻略する段階において、逐一随伴的に発露・発話されていく。それら身体の動きに準じて経済的な欲求も増大していくが、私たちはそれを解消する術を心得ている。近代世界は、己の小さな世界を巨視的に大きくすることで成立してきた。王である〈外界〉は、いかなる人をもその「操作された想像力」から抜け出ることのないように管制してきたのである。
Back on the Stage. 現代世界には、卓抜なる散文――いや批評文――による、「世界のすべて」、つまりすでに表象されているものの心底に描かれている無意識の形象化が必要とされている。私の生は、すべてをそこに向けて演じられる。
Tel quel | trackback(0) | comment(0) |
2009/05/24
<<接近と記憶のための読書ノート 適宜更新(2008 april 04~) | TOP | 二〇世紀以前の人類が翹望してきた理想的な未来社会について>>
comment
trackback
trackback_url
http://prototype90.blog126.fc2.com/tb.php/8-1db1050a
| TOP |